| ブライアンズタイム 黒鹿毛 1985.5.28 種付け時活性値:1.25  | 
Roberto 鹿毛 1969.3.16  | 
Hail to Reason 黒鹿毛 1958.4.18  | 
Turn-to 1951 | 
| Nothirdchance 1948 | |||
| Bramalea 黒鹿毛 1959.4.12  | 
Nashua 1952.4.14 | ||
| Rarelea 1949 | |||
| Kelley's Day 鹿毛 1977.5.11  | 
Graustark 栗毛 1963.4.7  | 
Ribot 1952.2.27 | |
| Flower Bowl 1952 | |||
| Golden Trail 黒鹿毛 1958.3.5  | 
Hasty Road 1951 | ||
| Sunny Vale 1946 | |||
| パシフィカス 鹿毛 1981.5.29 仔受胎時活性値:0.25  | 
Northern Dancer 鹿毛 1961.5.27 種付け時活性値:0.75  | 
Nearctic 黒鹿毛 1954.2.11  | 
Nearco 1935.1.24 | 
| Lady Angela 1944 | |||
| Natalma 鹿毛 1957.3.26  | 
Native Dancer 1950.3.27 | ||
| Almahmoud 1947 | |||
| Pacific Princess 鹿毛 1973 仔受胎時活性値:1.75  | 
★Damascus 鹿毛 1964.4.14 種付け時活性値:0.00  | 
Sword Dancer 1956.4.24 | |
| Kerela 1958 | |||
| Fiji 栗毛 1960 仔受胎時活性値:1.00  | 
Acropolis 栗毛 1952 種付け時活性値:1.75  | 
||
| Rififi 栗毛 1954 仔受胎時活性値:1.25  | 
| 父 | 母父 | 祖母父 | 曾祖母父 | 
|---|---|---|---|
| ブライアンズタイム (Hail to Reason系)  | 
Northern Dancer (Nearctic系)  | 
Damascus (Teddy系)  | 
Acropolis (Blandford系)  | 
| 父の活性値 | 母父の活性値 | 祖母父の活性値 | 曾祖母父の活性値 | 
| 1.25 (5歳時交配)  | 
0.75 (19歳時交配)  | 
0.00 (8歳時交配)  | 
1.75 (7歳時交配)  | 
| 父の分枝状況 | 母父の分枝状況 | 祖母父の分枝状況 | 曾祖母父の分枝状況 | 
| Nearcoの5代孫 | Nearcoの孫 | Bend Orの10代孫 | Birdcatcherの10代孫 | 
| 8代残牡先祖数 | 4代血統構成 (資質固定指数)  | 
潜在能力値 | 少ない先祖etc | 
|---|---|---|---|
| 6/128 | A  ★A●  ★G  F (0.33)  | 
1.98 | 父初年度産駒 Acropolis  | 
| 形相の遺伝 | 料の遺伝 | 牝系 | 何番仔? | 
| Acropolis (Pacific Princess)  | 
4.25 | 半兄ビワハヤヒデ (No.13-A)  | 
5番仔 (4連産目)  | 
潜在能力値は数値が少ないほど大きいことを示しています。
『20世紀最後の三冠馬』ナリタブライアン。年末の大一番となった有馬記念でも圧倒的な強さを見せ、2着ヒシアマゾンに3馬身差をつけて勝利しました。これで年間GI4勝を達成。やっぱり強かった。他の馬にはどうしようもなかった。ナリタブライアンの鞍上は南井克巳騎手、所属は栗東・大久保正陽厩舎。ともに有馬記念初制覇でした。なお、レースの3着には春の日経賞2着以来のライスシャワーが入りました。
勝つ時はいつも豪快に、胸のすく強さを見せつけて、ナリタブライアンは「我が道を行く」というレースを繰り返しました。全盛時のナリタブライアンは異次元の馬でした。同じように、他馬とは異なる次元を走っていた兄ビワハヤヒデとの「兄弟対決」を見ることができなかったのは、ホントに残念です。私は、おりからの大相撲ブームの中で、横綱へとまい進する若ノ花&貴ノ花兄弟になぞらえて、「ビワが若、ブライアンが貴」と思ったものでした。兄弟の関係も、兄弟の「タイプ」の関係もよく合致しているでしょ?まま、競馬ファンみんなが、当時1度は考えたことだとは思いますけれど。本家・若貴の「兄弟直接対決」は若に軍配が上がりました−1995年九州場所−。では、競馬界の若貴の「兄弟直接対決」が実現していたら、どちらに軍配が上がったのでしょうか。その答えは……、皆様の心の中で思い巡らし、頭の中で考え尽くしてくださいませ。
「順風満帆」と思われたナリタブライアンの競走馬生は、4歳春の阪神大賞典圧勝後の「右股関節炎」疾病により歯車が狂ってしまいました。4歳秋、ぶっつけで挑んだ天皇賞・秋12着、ジャパンカップ6着、有馬記念4着。徐々に着順を上げるものの、ナリタブライアンの本当の走りを知っている者にとっては、「?」がつく凡走でありました。「ブライアンも、機械仕掛けではない生身の生き物なんだなぁ」と思いました。そして、迎えた5歳。立ち直れるのか、ナリタブライアン。そんな思いで見つめていた土曜開催の阪神大賞典。前年−1995年−の年度代表馬マヤノトップガンとの、ラスト3ハロンにおける攻防。2頭だけの競馬になってしまった、あの「平成の名勝負」を制して、ナリタブライアンは見事に復活しました。「やっぱり、阪神大賞典は日曜日に無いとアカンなぁ」と思いました。
阪神大賞典の次走は、もちろん天皇賞・春でした。単勝1.7倍の圧倒的1番人気を集めたナリタブライアン。しかし、『遅れてやって来た同期の桜』サクラローレルに差されてしまい、2着に敗れました。天皇賞・春の次走に、大久保正陽調教師は高松宮杯を選ばれました。1200mのGI戦になった最初の年でした。「3200mのレースの次に1200mのレースに出るなんて!」と、出走前から物議を醸したこのレース。ナリタブライアンは、フラワーパークの4着に敗れました。その後、ナリタブライアンは右前脚屈腱炎を発症し、結果的に、高松宮杯が最後のレースとなってしまいました。1996年11月9日。ナリタブライアンは、京都競馬場で引退式を行い、静かにターフを去って行きました。
1998年9月27日。「真の名馬は生命力もある」と信じていた私にとって、ナリタブライアンの訃報には本当に驚きました。腸の開腹手術が行われたりして、体調がすぐれていないのは知っていましたが……。そんなに早く、本物の「無人の野」に駆けて行かなくてもよかったのに……。告別式での早田光一郎氏の涙ながらの挨拶が印象に残ります。
今年(2000年)、ナリタブライアンの初年度産駒のデビュー年となりました。ナリタブライアン産駒は2世代151頭しかいません。残された遺児の中から1頭でも多くの活躍馬が出て欲しいと願います。たとえ、中島理論的には飽和血脈となってしまったTurn-to系でも、三冠馬の父系を根絶やしにしてはいけない。そう、思います。